半月板を2回縫合しても治らなかった私が、部分切除で完全復帰できた理由【実体験】
半月板の縫合や保存療法を経て、部分切除後に段階的に復帰していく過程をイメージしたイラスト

半月板は、できるなら残した方がいいという考えは今も変わらない

半月板は、できるなら残した方がいい。
これは今も変わらない、私の基本的な考えです。

一度切除してしまえば元に戻ることはありません。将来的に膝への負担が増える可能性があることも、頭では分かっていました。
だからこそ私は、「保存療法でいけるなら、それがいい」「縫合で残せるなら、それがいい」とずっと思っていました。

ただ、頭で分かっていることと、自分の膝で起きていることは、必ずしも一致しません。
私の場合は保存療法も試し、縫合も2回行い、それでもロッキングやキャッチングが改善せず、最終的に部分切除という判断に至りました。

そして結果として、私は今バスケットボールを含めて完全に競技復帰しています。
当時「切除したら終わりだ」と思い込んでいた私にとっては、これは本当に予想外の結末でした。

この記事は「部分切除を勧めたい」わけでも、「縫合は意味がない」と言いたいわけでもありません。
あくまで一個人が、自分の膝の状態と向き合いながら、どのように判断し、どういう結果になったのかを、完全復帰した今の立場から整理した体験談です。

同じ状況の人がいたとしても、損傷部位や症状、生活や競技の目的が違えば、選択肢は変わると思います。
それでも「こういう経過になった人間もいる」という事実が、迷っている人の判断材料の一部になればと思い、できるだけ正直に書きます。

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1回目の半月板縫合は、前十字靭帯再建手術と同時に行った

私の1回目の半月板縫合は、前十字靭帯(ACL)の再建手術と同時に行いました。

当時の私は、ACLを再建するなら膝の安定性は上がるはずで、その安定性が戻れば半月板への負担も減り、縫合した部分も落ち着くかもしれない、と考えていました。
「どうせやるなら一度で全部を良くしたい」という気持ちもあったと思います。手術やリハビリは精神的にも体力的にも大きいので、できるだけ回数は増やしたくない、というのが本音でした。

今振り返っても、この時点の判断を間違いだったとは思いません。
むしろ「残せる可能性があるなら残したい」という私の価値観に沿った選択でしたし、当時の状況では自然な流れだったと思っています。

ただ、この時点では私の中にまだ甘い期待がありました。
縫合したという事実だけで、どこか「もう大丈夫だろう」と思っていたところがあります。
本当はそこから先の「縫合した部分が安定するかどうか」が本番なのに、私はその重さを十分に理解していませんでした。

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抜釘の手術で分かったこと:糸が入ったままでも半月板はめくれ上がっていた

状況がはっきりと見えたのは、ACL再建で入れていたボルトを抜く「抜釘手術」のときでした。

その時点で半月板には縫合糸が入っている状態でしたが、糸が切れてしまい一部がめくれ上がっていることが確認されました。
私の中ではここがひとつの衝撃でした。「縫合している=固定されている」という単純な理解だったので、「糸が切れるのか」と現実を突きつけられた感覚でした。

結果として、抜釘のタイミングで2回目の縫合(再縫合)を行うことになります。
この時はすでに「縫合したら終わり」ではなく、「縫合後に安定する条件が揃わないと終わらない」という現実を、私なりに受け止め始めていました。先生からも「一回やってくっつかなかったのでもう一度縫合しても結果は変わらないかもしれない」といわれていましたが、この時も私は半月板をすべて残すことができる縫合を選択しました。

「再縫合で落ち着くかもしれない」と信じたかった。
切除という言葉が現実になってくるほど、私は逆に「残す」方向に気持ちが引っ張られていきました。

再縫合のあと、試合中のジャンプ着地で大きなロッキングが起きた

再縫合後、私は慎重に日常を過ごしていました。
急な動きは避け、様子を見ながら、少しずつ身体を戻していく時期でした。

ACLの手術から1年半後にやっと出れたのに、ロッキングが起きたのは、3試合目の中でした。
リバウンドで弾かれたボールを取りにいき、ジャンプして、着地した瞬間のことです。

体育館でのバスケットボールの試合中、ジャンプの着地でZK-7サポーターを装着した左膝を痛める瞬間を描いたイラスト
試合中のジャンプ着地で、膝にロッキングが起きた瞬間をイメージしたイラスト

誰かと接触したわけでもなく、もつれたわけでもありません。
無理な体勢でもなく、変に捻った感覚もない。
それなのに、着地の一瞬で膝がはっきりと引っかかりました。

今振り返ると、その時は以前よりも力の入り具合がよくなったのだと思います。
踏み込めるようになり、跳べるようになり、着地にも迷いがなかった。
だからこそ、半月板にかかる負荷も、以前とは違っていたのかもしれません。

着地した瞬間、膝が「ゴキッ」といういやな感覚があり、ひざを伸ばそうとしても何かが引っかかって伸びない。
痛みというより、「止まった」という感覚に近く、膝の中で何かが噛み込んだような感触でした。

その場で動けなくなり、「これはまずい」と直感的に分かりました。
このロッキングは、私の中で「次の段階に進んだ」ことをはっきり示す出来事でした。その試合の帰り道、絶望と悔しさ、虚しさで涙が止まらなかったのを覚えています。今までの頑張りは何だったのか。と。

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2度目の受傷時点で、私は「次に手術したら部分切除は確実」と思っていた

2度目の半月板の受傷をしたとき、私は正直「もう一度手術になったら部分切除は確実だろう」と思っていました。
それは先生からの説明というのもありましたが、これまでの経過と自分の感覚からの予感でした。

そして私は、部分切除に対して強い恐怖を持っていました。
「切除したら膝の負担が増える」
「もう競技復帰は終わるかもしれない」
当時の私は、ほぼ確信に近い形でそう思い込んでいました。

今だから言えますが、この思い込みが私を一番苦しめていました。
膝そのものの痛みより、「未来がなくなる」という想像のほうが、私の判断を重くしていた気がします。

だからこそ私は、ロッキングが起きた直後でも、すぐに切除へ進む決断はできませんでした。
「できるなら、まだ残したい」
「まだ自分の努力で何とかできるかもしれない」
そう思ってしまったのです。

保存療法で行こうと決めた時期と、その背景

大きなロッキングを経験したあと、私は一度「保存療法で行こう」と決めました。
切除に進むのが怖かったこともありますし、何より「切らないで済むならその方がいい」という気持ちが強かったからです。

筋トレは、スクワットなどの太ももの筋トレを中心に行いました。
大腿四頭筋だけでなく、ハムストリングも意識し、走り込みや縄跳びなども取り入れていました。
単に筋肉をつけるというより、「動いたときに膝がぶれない状態」を作りたいという意識で続けていました。

実際、筋力は確実についてきましたし、安定感も増しました。
階段の上り下りが少し楽になる日もあり、「このままいけるかもしれない」と思える瞬間もありました。

ただ、保存療法には限界がありました。
動作の途中で突然起きるロッキングやキャッチングは、筋力だけではコントロールしきれませんでした。
筋トレで支えられるのは「安定性」の一部であって、「引っかかりそのもの」を消せるわけではない。
それを私が理解するのに、少し時間がかかりました。

その後、私生活では大きな変化もありました。子どもが生まれ、生活の中心が変わった時期です。
育児が始まると、バスケットボールからは自然と距離ができました。時間的にも体力的にも、以前のようにプレーする余裕はなくなりました。

ただ、その間も走り込みや筋トレは続けていました。バスケはしていなくても、膝を支えるためのトレーニングは「やめない」ようにしていました。
数年という時間をかけて身体を作り直しながら、「今度こそ、保存療法でいけるかもしれない」そんな期待も、どこかにありました。

子どもが5歳くらいになり、少しずつ手がかからなくなってきた頃、私は再びバスケットボールに復帰することになります。

バスケ復帰後もロッキングは増え、ワンプレーごとに戻す状態になっていった

数年ぶりにバスケットボールに復帰したとき、私は「身体は作ってきたつもりだ」という感覚がありました。
走り込みも筋トレも続けてきた。以前より慎重に動ける。だから今度は何とかなるかもしれない。
そんな期待もありました。

しかし、復帰してしばらくすると、現実は少しずつ違う方向へ進んでいきました。
ロッキングの頻度が、少しずつ増えていったのです。

最初は「たまに起こる嫌な引っかかり」でした。
それがいつの間にか、「起こる前提」でプレーするような感覚になり、最終的にはワンプレーごとにロッキングが起きて、元に戻して、またプレーする、という状態になっていきました。

これではプレーとして成立しません。
何より怖い。次に止まったらどうなるのか、止まった状態で転んだらどうなるのか、周囲と接触したらどうなるのか。
不安が常に頭の片隅にあり、思い切った動きができなくなっていきました。

そして同時に、私は思いました。
「これは、気合いや筋トレだけで押し切れる領域ではない」
ここまで来たら、もう一度ちゃんと向き合うしかない。
そうして私は、手術を決意しました。

3度目の手術で部分切除へ:決定打は「しっかり走る」目的だった

3度目の手術で私は部分切除に至りました。
この判断は、勇気があったからでも、割り切れたからでもありません。
むしろ「怖かったけど、他に現実的な選択肢が残っていなかった」という感覚に近いです。

最終的に私が考えたのは、これからどう生きたいか、ということでした。
日常生活で不安なく動けること。
そして、バスケットボールで迷いなく走り、跳び、着地できること。

中途半端に動ける、ではなく、プレーとして成立するレベルで戻りたい。
それを考えたとき、ロッキングやキャッチングを抱えたままでは、どこかで限界が来ると感じました。

こうして私は、部分切除を選ぶことになりました。

部分切除後の復帰は、想像していたよりもはるかに早かった

2025年5月28日、私は部分切除の手術を受けました。

手術から1週間後には、小走りができる状態になっていました。
正直、この時点で「思っていたより全然動ける」と感じたのを覚えています。

6月15日には、シュート練習をしに体育館へ行きました。
このころから外のランニングなども積極的にやっています。

半月板損傷から手術、リハビリ、バスケットボール復帰までの過程を段階的に表したイラスト
半月板の損傷後、手術とリハビリを経て、再びバスケットボールをプレーできるようになるまでの流れをイメージしたイラスト

8月10日には、対人でプレーしています。
この時点で「プレーの中で膝が止まるかもしれない」という恐怖は、少なくとも以前とは比べ物にならないほど薄れていました。

9月には医師からも「対人でやってよい」とお墨付きをもらい、思いっきりやるようになりました。

そして9月28日、市民大会の試合に出場しました。
部分切除の手術から丸4か月での復帰です。

今振り返ると、少し早すぎるかもしれません。
それでも私は、膝が「怖い」「引っかかる」という感覚から解放され、プレーに集中できていました。

思っていた未来とはまったく違っていた:部分切除したからこそ、私は完全復帰できている

ここが、私自身にとって一番意外で、一番伝えたいところです。

2度目の受傷をしたとき、私は「次に手術したら部分切除は確実だ」と思っていました。
そして「切除したら膝の負担が増え、復帰はできない」と本気で思い込んでいました。

でも、実際はまったく違っていました。

部分切除をしたからこそ、私は今、完全に復帰できています。
あのロッキングの恐怖も、私生活での引っかかりのストレスも、少なくとも「動くたびに怯える」ような状態から抜け出せています。
私の中では、部分切除は「終わり」ではなく、「やっと前に進めた判断」でした。

もしできることなら、2度目の受傷をした当時の私に言ってあげたいです。
私はその頃、切除に怯えて、未来が消えるような気持ちになっていました。
でも今の私は、はっきり言えます。

「大丈夫だよ。
思っているよりずっと楽に、そして、ずっと早く戻れるから」

この言葉は、誰かへの一般論ではありません。
私が私に向けて言いたい言葉です。
そして、同じように怖さの中にいる人がいるなら、「そういう結末もある」と伝えたい言葉です。

完全復帰した今も、私は気をつけている:O脚の自覚と歩き方の意識

完全復帰した今も、私は何も考えずに動いているわけではありません。
「戻れたから終わり」ではなく、「戻れたからこそ、続けることがある」と感じています。

私はO脚が結構ひどいタイプです。
だから何も意識しないで歩くと、内側に負担が寄りやすい感覚があります。

そのため私は、できるだけつま先、特に膝から下が進行方向に対してまっすぐになるように意識して歩いています。
極端に矯正するというより、「内側に入っていく癖を戻す」イメージです。

この意識を持つことで、内側にかかる負担が少し分散されているのを、なんとなく感じることができます。
「劇的に変わる」というより、「嫌な偏りが減る」ような感覚です。
こういう小さな感覚の積み重ねが、私にとっては復帰後の安心につながっています。

O脚を自覚しながら、半月板手術後に歩き方を意識してコンビニから帰宅する男性の様子を描いたイラスト
完全復帰後も、O脚を意識して歩き方に気を配りながら日常生活を送っている場面のイメージ

筋トレは今も続けている:太もも前後と臀部まで、膝だけに頼らない

筋トレも、私は変わらず続けています。
完全復帰したからこそ、むしろ続ける必要があると感じています。

私が意識しているのは、太ももの表(大腿四頭筋)だけでなく、裏(ハムストリング)も鍛えることです。
そして臀部まで含めて鍛えることです。

膝を守るために膝だけを見ていると、どうしても限界があります。
股関節や体幹の安定がないと、膝に無理が集まる。
私自身、リハビリやその後の身体感覚を通して、少しずつそれを理解してきました。

「筋トレで全部解決する」とは言いません。
私も保存療法で限界を感じた側の人間です。
それでも、部分切除後に安定して動けている背景として、筋トレを継続していることは確実にあると思っています。

今振り返って思うこと:私の場合は「損傷部位」と「目的」がすべてだった

今振り返ると、私は結局、「損傷した場所」と「私が目指した目的」によって、選択肢が決まっていったのだと思います。

縫合が成立する条件があるなら、それが理想。
保存療法が合う人も確実にいる。
これは今もそう思います。

ただ私の場合は、縫合を2回行っても安定しにくく、試合中の着地で大きなロッキングが起き、さらに私生活でもロッキングやキャッチングが出てしまった。
この経過の中で「しっかり走る」ことを優先した結果、部分切除に至った。
私は、こう整理しています。

そして、当時私が一番恐れていた「切除したら復帰できない」という未来は、私には当てはまりませんでした。
むしろ逆で、部分切除をしたからこそ、私は今完全に復帰できています。

同じように迷っている人へ:答えは一つではないが、整理はできる

もし今、保存療法で粘るか、縫合を試すか、手術に踏み切るかで悩んでいる人がいるなら、「どれが正解か」をいきなり決めようとしなくていいと思います。

私自身がそうでした。
怖くて、未来が見えなくて、決められなかった。
でも決められない中でも、整理できるものがあります。

自分の損傷部位はどういう説明を受けているのか。
今出ている症状は、競技だけなのか、生活にまで出ているのか。
自分は「どこまで戻りたい」のか。
「普通に生活できればいい」のか、「競技として走りたい」のか。
この整理だけでも、見える景色が少し変わります。

この記事はあくまで一例です。
ただ、縫合2回、保存療法、そして部分切除まで回り道をして、今完全復帰している人間もいる。
その事実が、誰かの不安を少しでも軽くし、判断の整理に役立てば幸いです。

※この記事は医療的な判断を勧めるものではなく、前十字靭帯再建手術と同時の半月板縫合、抜釘時の再縫合、試合中のロッキング、保存療法での限界、そして3度目の手術での部分切除に至った一個人の体験を、完全復帰後に振り返って整理したものです。

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